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Top of the Hill
停車 — 一九〇六年の避難民が地震の仮設小屋を牧場まで運び込み、全米一フィリピン系の多い街をつくった場所。
Key facts
- John Daly は一八六八年から、ここで約二百五十エーカーの酪農場を営んでいました
- Daly は一九〇六年の地震の避難民を受け入れ、翌一九〇七年に安く土地を分け売りしました
- Daly City は一九一一年三月二十二日に市として成立しました
- 一定規模の米国の都市では、フィリピン系の割合が全米一。「Pinoy Capital(ピノイの首都)」と呼ばれます(二〇一〇年国勢調査で四十・七パーセント)
Narration transcript
Top of the Hill(トップ・オブ・ザ・ヒル)に着きました。Mission Street の文字どおりの頂上で、ちょうど San Francisco が終わって Daly City が始まるところです。この街ぜんぶが始まったのが、この場所。そして、始まりは一つの災害でした。
一九〇六年より前、ここは John Daly(ジョン・デイリー)の酪農場でした。二百五十エーカーの牧草地に、牛。そして丘を下って街へミルクとバターを売る一人の男です。ところが一九〇六年四月十八日の朝、地震と火災が San Francisco をばらばらにして、何万人もの人が行き場を失いました。Daly は自分の牧場を、その人たちに開け放ったんです。避難民は、市から配られた小さな仮設小屋を引きずって Mission Street を上ってきました。翌年、Daly は牧草地を区画に分け、安く売って、その家族が小屋を据えて住み着けるようにしました。地震の避難民と、一人の酪農家の気前のよさから、町が育ったんですね。一九一一年に市として成立し、彼にちなんで名づけられました。San Francisco に、ほかの何もかものように呑み込まれないため、という面もあったんです。
そして、今ここにたどり着く人たちを見てください。この流れは、ずっと止まっていないんです。Daly City は全米でいちばんフィリピン系の多い街。四割を超えていて、「Pinoy Capital(ピノイ・キャピタル)」、ピノイの首都と呼ばれるほどです。地震の避難民がこの丘に初めてのアメリカの家を築いてから一世紀、今度は太平洋の向こうから来た人たちが、同じ土地に自分の家をつくっています。San Francisco が身寄りのない人を丘の上へ押し上げた街は、百年かけて「最初にたどり着く場所」であり続けているんですね。
ここはひと息つくのにいい場所です。おなかがすいていたら、この Mission Street や、上の Serramonte のフィリピン料理は本物ですよ。車に戻ったら、南へ。住民が納税者をはるかに上回る、ある町へ向かいます。